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故武田郁三郎県議会議員を偲ぶ~お別れ会

1月17日
川崎区で10期にわたり県議会議員を務めてこられ昨年12月25日急逝された武田郁三郎先生のお別れ会が労働会館にて多数の参列者のもとしめやかに行われました。
市川も、11時からの式典に参列させていただきました。

武田先生と市川、というより亡き私の両親は実は深いご縁があります。
中小企業の経営者であった父は、武田先生の熱心な支持者でありました。
式典では後援会を代表して小川正春氏が弔辞を読まれましたが、その中で昭和53年の選挙について触れられていましたが、市川が中学生だったこの選挙、今でも印象に残っております。
それは武田先生にとって正に試練となったであろう大変厳しい選挙でありました。
このとき、私の両親はじめ様々な形で武田先生にお世話になった方々が文字通り奮起し、見事当選されたわけですが、両親も期間中は昼夜問わず一日中選挙事務所につめていて家で私1人留守番していた思い出は忘れられません。
何故そこまでやるんだろう?当時の私は理解できませんでした。


運命とは不思議なもので、そんな私は、その後当時同じ川崎区選出の県議でもあった斎藤文夫参議院議員の秘書となりますが、両親と武田先生との関係は変わることなく続きました。

斎藤議員の秘書をやめてわずか1年足らずの年末、私の父は脳梗塞で倒れ61歳の若さで亡くなりましたが、倒れた直後、まだわずかに意識のある中、報を受けて真っ先に病室に駆け込んでこられたのは他でもない武田先生でした。父の手を握り「藤本さん、藤本さん!(私の旧姓です)」と叫んでおられた先生の姿は今でも鮮明に覚えています。
その後父の後を追うようにわずか4年でやはり心筋梗塞で亡くなった母。その夜も武田先生は自宅へと駆け付けてくれました。
それだけではありません、お盆の季節になると武田先生はひょっこりと「「お線香をあげにきたよ」と何度も自宅を訪問してくださいました。


私が立候補を決めた後も、党派は違うものの、武田先生はお会いするたびに多くの励まし、教えを私に与えてくれました。
そんな武田先生に最後にお会いしたのは亡くなる1月前くらいのことだったと思います。
日航ホテルで行われた会合のあと、たまたま乗ったエレベーターに武田先生が乗っておられたのです。
2人きりのわずかの時間でしたが、先生は私の地元古市場に住まれている旧友のTさんのお名前を出して、よくお願いするようにと言ってくださいました。もうすでにいろいろご支援いただいている旨を話しますと、Tさんとの思い出を語りながら、ご自分からも言ってあげるからとお約束してくださいました。

武田先生のご逝去のあと、年末もおしせまった30日、私が地元のあいさつ回りでTさんにお会いすると、「じつは亡くなる2日前、武田先生にあったんだよ。そうしたら、市川さんを応援してやってくれと頼まれた。それが武田先生の遺言になったよ」というお話を伺いました。
やはり、武田先生は、あのエレベーターでの約束を果たしてくださった。市川の胸にあついものがこみ上げてきました。


武田先生のご功績は改めていうまでもありませんが、今同じ地方議員となった私にとって特に感嘆することは、「月曜の声」という川崎駅での朝の街頭活動をなんと40年1800回以上継続されたこと、激変する政界の中生涯社会党県議というスタンスを貫かれたこと、そして何より「義理」や「情」というものを忘れることなく政治活動を行われていたこと。
一番厳しい時期の支援者をいつまでも大切にしてくださった武田先生。
私は亡き両親になりかわって心からお礼を申し上げたいとおもいます。

義理や情のみで政治家が選択されることに関して市川は疑問を呈したいと思います。
しかし、政治の世界に身をおくと、自身の利益ばかりで「合理的」に動く政治家も実はたくさん存在することも事実です。
私は、そうであってもやはり人として義理や人情を理解できる政治家になりたいと、武田先生の葬儀に接し改めて強く思いました。


時代の移り変わりとともに、もう武田先生のような政治家は現れないのかもしれません。
しかし、その存在はいつまでも地元では語り継がれると信じます。
武田先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。
そして、先生、本当にありがとうございました。

合掌